仏教セラピーの3番目の柱は、「感謝する習慣を身に付ける」ということで、これは私たちの心の本質である完全性を高めるための方法です。
完全性とは私たちの心の中で、認識、喜び、全体性、創造性(叡智)、愛、治癒力といった働きをする心の要素で、仏教では仏性(真我)と呼ばれています。
現代心理学ではA.マズローが、完全なる人間や自己実現として探求したものです。
私たちが自己中心的なエゴに支配されながらも、社会の平均として困っている人を助け、犯罪を思い留まっているのは、この完全性が働いているからです。
うつ病の治癒ではこれまで思考を抑制し、蓄積された感情を浄化してきましたが、最後に治癒力が属している完全性を高めることの、3つを組み合わせることによって万全にすることができます。
その完全性を高める一番有効な方法が感謝する習慣を身につけることで、それは自分が幸せになることでもあります。
私たちは「どこかに幸せがある」、「いつか幸せになる」と思って毎日頑張っています。
しかしそれでは永久に幸せになれません。
なぜならば幸せは自分自身の「今」にあるからです。
今、自分が幸せでなければ、それ以外のどこにも幸せはありません。
幸せは努力して得るものではなく、自分がすでに幸せであることに気がつくことなのです。
その幸せに気づくために必要なことが感謝する習慣を身につけることです。
感謝と言えば、相手にお礼を言うことだと思っている人が多いと思いますが、本当の意味はそうではありません。
感謝とはまずは自分の喜びがあって、その喜びを自分の周りに広げてゆくことです。
そうなれば喜びの輪が広がって、それはいつか自分に還って喜びの連鎖が起こります。
その喜びの連鎖が幸せであり、幸せであることが完全性と治癒力を高めます。
例えば私たちは犬がしっぽを振る様を見て犬を愛しく思います。
それは犬の喜びが私たちに伝わって、私たちの心を動かしているからです。
アニマルセラピーの効果は、そのような喜びの共感や、犬を愛しく思う愛の拡大が、完全性と治癒力を高めるものです。
私たちは桜の花を見ながら、春になった喜びを分かち合いますが、私たちに喜びを誘発したのは桜の花で、それは桜が生かされていることを喜ぶ感謝の表現なのです。
花見もお祭りも自然に発生した集団セラピーです。
私たちが身の回りの家族、近隣、学校や職場の人たちに感謝し、家や食べ物や社会の仕組みや天自然に感謝し、神にも感謝することができれば、治癒力はどんどん高まってゆきます。
その感謝を習慣化するとても簡単な方法があります。
それは1日10回以上「ありがとう」という言葉を使います。
使うというのはありがたいと感じなければ使えませんから、この方法は同時に「ありがた探し」の意味合いがあります。
これを本気で続ければ、幸せになってそれだけでうつ病が治ることもあります。
感謝以外にも創造的な行為が完全性と治癒力を高めます。
詩を書いても絵手紙でもブログの発信でも、どんなことでもよいのでパターンによらないクリエイティブな自己表現を趣味にすることです。
心理療法に箱庭療法というのがあって、箱の中に自分で庭を作る遊びですが、これは創造性を拡大する効果を利用したものです。
できれば遊びや趣味であることが望ましいのですが、いつでもどこでもできて、お金をかけない一番簡単な方法は自由イメージを心の中に描いてゆくことです。
例えば、自分が野中の大木になって、その周りで起こる自然の風景を次々にイメージしてゆきます。
イメージとは想像することではなく、五感で感じることですから、注意してください。
風のそよぎ、枝のざわめき、太陽の暖かさ、雨の冷たさ、虫や鳥や雲の動き、そういうものを刻一刻とリアルに感じてゆきます。
そのような方法を繰り返して、創造性を高めることができれば治癒力も高まってゆきます。
これまでうつ病の自然治癒について述べてきましたが、先入観を捨てて読めば合理的な療法であることがわかるはずなので、理解が深まるにつれて今後心理療法の主流になってゆくと思います。
しかしながらこれまでのところここに書かれた内容はまだ知られていないばかりでなく、科学的でなかったり、一般通念に反するものも多いと思います。
それらはこれから科学が発達すると共に、世の中に理解されてゆくことです。
最近テレビで東日本大震災の被災の映像がどんどん放映されています。
そのようなことはこれまでの通念では、被災者が怖い思い悲しい思いを蘇らせるという理由で避けられてきました。
おそらくアクセプタンスの考え方が知られてきたからではないかと思いますが、仏教セラピーは「悲しい思いを繰り返さないために、今悲しみを体験し尽くしましょう」と言っています。
世の中が少しづつ進んでいることを実感します。
仏教セラピーの考え方が社会で当たり前に受け容れられるようになった時には、うつ病で苦しむ人も少なくなっているでしょう。
その問題を引き起こす感情を比較的短期間に掃除する方法が感情の浄化法です。
何をやるかといえば、過去にあった嫌な状況を思い出して、そこで生ずる感情を否定せずにあるがまま受け容れてゆきます。
それはつまり今まで溜めてしまった嫌な気持ちをまとめて味わうことで、同時にあるがままに受け容れるトレーニングにもなります。
ここでは一人でやる感情の浄化法で、自分の気持ちをノートに書き込んでゆく「筆記式浄化法」をご紹介します。
一人一人相手を思い出して順番にやりますが、人以外に例えば恐怖感のようなものを浄化するのであれば、恐怖を感じる状況を思い出してやります。
蓄積された感情は様々な感情が玉ねぎの皮のように積み重なっているので、一番心の重荷になっているものから優先的に浄化します。
それが解消すれば、その次の感情を重荷に感じますから、常に一番重荷になっている感情を浄化してゆけば心はだんだん軽くなってゆきます。
それらの感情の根底にあるものが両親との関係で、それは自分の人生全体に大きく影響を与えますから、早めに浄化することが望まれます。
準備するものは大学ノートとボールペン、そして涙を拭くタオルです。
相手を決めて、嫌な思い出のある情景を1つ思い出します。
人間の記憶はイメージだけで、それはビジョンや体感など五感の印象として出てきます。
その情景を思い出すと、そのときの気持ちがよみがえりますので、その気持ちをそのままノートに書き込んでゆきます。
「悲しい」「畜生!」「殺してやる!」などのように気持ちのままを書き続けます。
涙が出たらそれを抑えずに涙のままでいます。
大切なことは嫌な気持ちをキープすることで、これまで嫌な気持ちを否定してきたのとは反対に、嫌な気持ちを全面的に認め、受け容れてあげます。
そしてその気持ちに留まりながらノートを書き続けます。
気持ちのままに書きますから、同じ言葉を何度書いても構いません。
それを繰り返しているうちにだんだん気持ちが薄れてきますので、気持ちがわからなくなったら、また最初から同じ情景を思い出して気持ちを書き続けます。
その情景で気持ちが湧かなくなれば、同じ人の別の情景を思い出して書き続けます。
記憶に残るその人のすべての情景で感情が何も湧かなくなるまで繰り返すと、最後にはその人に対する気持ちのわだかまりが消えて、心の中に許しを生じています。
その人を思い出しても爽やかに感じますから、最初の気持ちと比較してみてください。
それが逆戻りことはありませんから、人間関係は激変します。
不思議なことに自分が変わるだけで相手も変わっています。
過去の嫌な記憶は感慨のない化石のような記憶になって、そのうち思い出すことがなくなるでしょう。
これは集中してやれば、数日で結果が出ますから、自分で体験的に効果を検証することができます。
集中して浄化をする場合は、1時間ごとに水を飲んで、吐く深呼吸を10分ほどやります。
その時呼気と共に身体に溜まったゴミを吐き出し、吸気と共に新鮮な生命エネルギーを身体に満たすことをイメージします。
水はソフトドリンクではなく必ず真水です。
ノートは何冊使っても構いません。
一人の浄化が終われば、次の人、次のことと浄化を続けます。
もし自分でコントロールできないほど感情が高ぶったり、パニックなどの心身症状が出るようであれば、症状の軽い情景に変えるか相手を変えるかして、軽いものから慣れていってください。
蓄積した感情は人によって千差万別で、精神障害の原因を詰め込んだ倉庫のようなものですから、自分の手に負えないようであればカウンセラーに頼んでください。
自分の手に負えなくなったのは、これまで嫌なものを避け続けてきたツケが溜まったものですから、ここで覚悟を決めて自分の生き方を変えるしかないわけです。
これ以上ツケを溜めないためにも、腰を据えて嫌なものと仲良くしてゆくことです。
ですから完全に苦しみをなくしてゆくには、自動的に起きる思考をなくしてゆくと共に、蓄積された感情の掃除をしてゆく必要があります。
蓄積された感情の掃除(浄化)は、私たちが生命圏に生まれてくる魂の目的でもあるので、生涯続けることが望まれますが、その過程においてうつ病や精神障害はなくなってゆくので、セラピーとしては障害がなくなったところで終わりです。
原因療法ですから勿論再発はなく、日常生活で苦しみを感ずることも少なくなっています。
蓄積された感情
私たちは日常生活の中で、自分の嫌なものや自分が否定するものに出会うと、それを避けたり我慢したりします。
それはなぜかというと、私たちにはものごとを善悪に仕分けする自動思考があって、嫌なことは悪いことだと否定する習慣があるからです。
そのため嫌な感情は充分体験せずに、未消化のまま心に蓄積されてゆきます。
蓄積された感情は、似たような状況が起きるたびに、水中に沈められた風船のように浮かび上がっては、思考と苦しみを連鎖してゆきます。
そのようにして苦しみが繰り返されるだけでなく、新たに未消化の感情が加わって、蓄積された感情が膨らんでゆきます。
私たちが突然怒りの衝動を感じたり、自分ではどうしようもないトラウマを抱えてしまうのは、そのような蓄積された感情があるからです。
蓄積された感情は幼少期に親子関係で生じたものが核になっていて、それが学校生活や社会生活の中で膨らんでゆきます。
親は一生懸命子供のために尽くすのですが、弱い子供の感じ方がわからないため、心ならずも子供の心を傷つけてしまいます。
子供は楽しいことは満喫して忘れますが、嫌な感情は心に蓄積したまま、その感情によってその後の人生を支配されます。
特に親が厳格であったり横暴であったりして支配的コントロールを受けた子供は、心に多くの未消化の感情を蓄積して、深い悩みや心の病を抱えるようになります。
PTSDはその感情の浮上を制御できなくなる症状であり、悩みや苦しみはその感情の浮上によって次々と自動思考が繰り返されるものです。
あるがままに受け容れる
蓄積された感情は、私たちの好き嫌いの嫌いの部分だけ置き去りにされたものです。
好き嫌いが生ずるのは思考の二元性によるもので、好きなものを求めれば求めるほど、同じ数だけ嫌いなものが発生してゆきます。
ですから嫌なものをなくしたければ、それを排除するのではなく、好き嫌いをなくさなければなりません。
どうすれば好き嫌いがなくなるか、それは好きなものと同じくらい嫌なものを愛することです。
嫌なものと積極的に仲良くなり、嫌なものを好きなものと同じように満喫します。
例えば誰かにイヤミを言われたら、嫌な気持ちを味わい尽くしてそれを後に残さないようにします。
それが「あるがままに受け容れる」ということで、これが仏教セラピーのもう一つの柱です。
うつ病治療において最も難しいのが、うつ病を嫌なもの悪いものと思って否定してしまうことで、うつ病を排除しようとする葛藤がうつ病を悪化させています。
ですから自然治癒においては、うつ病を治したい人に対して「うつ病を治そうと思ってはならない」という課題が示されます。
特にうつ病の人は好き嫌いが激しく、自分に都合の良いものばかり追い求める傾向があるので、それを克服できるかどうかが治るかどうかの分かれ道になります。
うつ病を悪いものと思わない、うつ病を否定しない、うつ病を治そうとしない、うつ病を満喫する、うつ病のままでOKというのがあるがままに受け容れることです。
これは好き嫌いの二元性を超越することであり、これができるようになれば、自分だけでなく人もあるがまま受け容れられるようになります。
あるがままに受け容れるとは、許しであり、また愛でもあります。
治癒力へのゆだね
うつ病を否定せずにあるがままにしておくだけで治るのだろうか?と疑問になると思います。
しかし自分というエゴがうつ病を治そうとしても、それはうつ病を否定した排除に過ぎませんから、うつ病を悪化させる原因にしかなり得ないのです。
うつ病が治るということは自分が治すのではなく、エゴの支配を放棄することによって治癒力が働いて治してくれます。
ですから私たちがやるべきことはうつ病を治すことではなくて、治癒力が働きやすい環境を作ることです。
あるがままに受け容れるというのはそれをやろうとしています。
「治る」という結果は自分が獲得するものではなくて、エゴの支配を放棄した結果、治癒力から褒美として与えられるものです。
エゴの支配を放棄するために有効なことは、治癒力を確信してそれに回復をゆだねる(任せる)ことです。
ゆだねというのは自分の権限を何かに委譲することで、失敗する権利をそれに与えることです。
つまり自分はまな板の鯉になって、自分を預けることがゆだねです。
それがすなわちエゴの支配を放棄することであり、治癒力が働く力を最大に高めます。
「ゆだね」と似て非なるものに「依存(頼ること)」がありますが、依存は正反対のものですから間違わないようにしてください。
「ゆだね」というのは「祈り」と訳すこともできます。
祈る相手は自分の治癒力でも、自分が親しみを感じる神仏でも何でも結構です。
祈り方は「うつ病を治してください」と頼むのではなくて、正しい祈り方は、うつ病が治った結果をイメージして、結果を今体験し、治癒力や神仏に感謝します。
心には「今心の中で体験していることが現実化する」という力があります。
治ることを時間の先に期待するのは苦しみになりますので、これも間違えないでください。
イメージとは五感で感じることで、回復した情景をリアルに体験して、結果の喜びを感じることです。
うつ病が治って幸せを感じている情景、職場でバリバリ仕事をしている情景をイメージして、その気持ちを繰り返し体験してください。
これは成功法則(引き寄せの法則)としても知られています。
参考書: 「今この瞬間」への旅 レナード・ジェイコブソン著
感じる歩き方
感じる習慣を身につけるには日常生活の中で、行動しながら感じる方法をトレーニングしてゆきます。
最初は散歩やトレッキングなどで屋外を歩く方法です。
頭の中で「1,2,3,1,2,3・・・」と歩数を数えながら3拍子(奇数拍子)で歩きます。
同時に一歩一歩足裏の感覚や下半身の動きにも意識を向け続けます。
交通や路面の危険には注意しなければなりませんが、それでも数と足には意識を向け続けます。
感覚はいくつでも同時に意識を向けることができるので、どんどん感覚を重ねてゆけば、無駄な思考が入り込む余地はなくなります。
3拍子を忘れてしまったり、時間や距離が気になったり、歩行以外のことが思い浮かんだら、思考が走り回っていますから、思考は気遣いせずに自分は3拍子と一歩一歩の感覚に戻ります。
感じる見方
次はものを見るときの感じ方ですが、目的がないときは目の焦点を結ばずに、視界全体をぼんやりと眺めます。
その時感じる力が一番働いていて、視界の中央だけでなく視界の隅のわずかな動きまですべてを感じています。
何かに焦点を結んでそれを理解しようとしたとたんに思考が働いて何も見えなくなります。
列車の長旅で車窓の景色を焦点を結ばずに見ていると、自分は止まったまま景色が動いてゆきます。
そのようにして景色を見ていると、長旅でも心が疲れません。
それは思考がないので時間を追う苦しみがないからです。
病院の待合室などで、写真や文字が混在している雑誌を上下逆さまにして見ます。
一部にフォーカスして「これは何だろう?」と思わないで全体をぼんやり見てください。
しばらく見ていると、ある部分の色彩やコントラストがとても美しく感じられるようになるはずです。
その時感じる力が強く働いています。
試しに雑誌の上下を元に戻してみると、とたんに言語化が始まって見えるものが何であるか説明できるようになります。
その時働いたものが思考で、最初に感じた色彩やコントラストの美しさはもうわからなくなっているはずです。
毎朝届く新聞の折り込みチラシを逆さまに見ることを日課にしてもよいと思います。
感じる食べ方
私たちは食事をするとき、人と話をしたり、何かを考えたり、テレビを見ながら食事をすることがほとんどだと思います。
そのような時は思考が走り回っているので、本当に食事を味わうことがありません。
食べるときや飲むとき、ゆっくりと動作しながら、食べ物の色、匂い、唇の感触、舌触り、歯触り、味、香り、食べる音、のどの感触、食道の感触、胃のもたれなどに全意識を集中しながら一口一口静かに食べてみてください。
話すことをやめ、食器や箸などの音は立てないようにして静寂を保ちます。
その時今まで食べていたものとは全く違う美味しさを感じるはずです。
茶の湯はそのように一椀のお茶を飲むための作法です。
家事で高める感じ方
草取りでも掃除でも炊事洗濯でも、家事をしながら全身で感じます。
洗濯や掃除が目的ではありませんから、効率を排除して、ほうきや雑巾や洗濯板を使って原始的にやるほうが有効です。
そうやって目で見、音を聞き、身体の感触を全身で感じ続けます。
ほうきなどの道具は、ほうきの穂先を自分の感覚として感ずることです。
草取りは手の感触を感じながら手で抜きます。
速度は問題ではないので、土の感触、草を抜く感触を感じてください。
菜園や花壇などの作業、農作業なども同じです。
こうして見ると、やらなければならないことがすべて半世紀以上前の日本の生活と同じであることに気がつくと思います。
私たちは便利さや効率を求めて、それが幸せだと信じて高度経済成長を遂げてきたわけですが、その結果元の生活に押し戻されようとしているようです。
スポーツや踊りで高める感じ方
スポーツはどんなものでも心によいので、身体を動かせるようになったらやるべきです。
有酸素運動は感覚を高めるのみならず、生命力も高めますので一石二鳥です。
散歩、スロージョギング、ジョギング、スポーツと移行しますが、特に水泳は全身の感覚と呼吸を使うのでとてもよいと思います。
スポーツは全身の感覚、「いまここ」の現在進行形に傾注することが大切で、人と競う必要はありません。
道具を使うスポーツは道具(ラケット、ボールetc.)と自分が一体になって、道具を自分の感覚として感じることです。
身体を動かす踊りはリズミカルなものも静かなものも祭りの踊りでもよいので、身体の感覚を全身で感じるようにします。
人目を気にせず、下手でもよいので、自分の気持ちに従って踊ること。
エアロビクスはスポーツの要素と踊りの要素が複合していて、心も身体も健康になります。
地域の催しでエアロビクス教室もありますし、DVDを見ながら自宅で一人でもできます。
スポーツではありませんがカラオケで歌を歌うことなど、他にもあらゆる行動を通して感じる生活を組み立ててゆくことができます。
私たちは思考の葛藤を苦しみとして感じますが、うつ病では同じことをぐるぐる考えながら、なかなか苦しい思いが止まらないと思います。
それは思考がパターン化して、考えることが癖になっているからです。
思考は自動的に起きるので、にわかに止めることはできませんが、感じる習慣を身につけてゆけば、自然に少なくなってゆきます。
思考の内容はとりあえず置いておいて、その考える癖をなくしてゆくのが仏教セラピーの一つの柱です。
リラクゼーションのところでいくつか例を挙げましたので、感じているとき思考が止まることは実感していただけたと思います。
思考と感覚は排他的に働いていて、私たちは感じているとき思考が止まり、思考があるとき何も感じていません。
ですからリラクゼーションをもっと進めて、どんな時でも感じることを自分の習慣にすれば、思考は少なくなって、いつもリラクゼーションの中で生きるようになります。
それだけでなく、思考が少なくなれば頭が良くなります。
実は思考がないのは集中している状態で、目的の思考が高速で切り替わり、インスピレーションもわいてきます。
人間の脳力は考え方でも知識でもなく感じ方で決まっていて、感じる生き方はその脳力を高めます。
うつ病の人は行動せずに考えてばかりいることが多いと思います。
脳力にも限界を感じていると思います。
仏教セラピーでは自己改革として、考える習慣をやめて行動しながら感じる習慣を身につけてゆきます。
「鬱病は動けないから行動できない」と言う人がいるかも知れませんが、行動というのは動き回ることではありません。
五感で感じるための行動ですから、寝ながらイメージすることも、歩くことも、屋外で空気を吸うだけでも行動は行動です。
できないことはやらなくても、できることをやっていれば、そのうち何でもできるようになります。
ボディースキャン
J・カバットジンが「マインドフルネスストレス低減法」の中で目玉にしているイメージ瞑想です。
このボディースキャンは寝るという行動、坐禅瞑想は座るという行動、ヨーガはポーズを取るという行動で、中身はどれも感じることに集中します。
手順だけ申し上げますので、実際は誰かに言葉で誘導してもらうか、自分で言葉を録音してそれを再生しながらやったほうが良いと思います。
仰向けに寝ていただくか、リラクゼーションチェアなどに座っていただいても結構です。
両手を上向きにして、頭を背もたれに付けて、全身の力を抜いてリラックスします。
目をつぶってへそ下の丹田にイメージで穴を開け、その穴で大きな深呼吸を繰り返します。
10回ほどそれを繰り返したら、今度は右足の親指に穴を開けて、そこで大きな深呼吸を繰り返します。
それを1分ほど繰り返したら、次は同じ足の真ん中の土踏まずに穴を開けて、そこで大きな深呼吸を繰り返します。
呼吸する穴を移動したら、穴の場所を「ここ、ここ」としっかり意識しながら、呼吸による空気の流れや温度を感じてください。
それを1分ほど繰り返したら、次は同じ足のかかとです。
足がだんだんしびれてくるかもしれませんが、それはとてもよいことです。
かかとの次は足首、ふくらはぎ、ひざ、太もも、足の付け根と上がってゆきます。
そこまできたら右足と左足の重さを比べてみてください。
右足が重く感じるはずです。
あるいは下に強く吸い付けられているように感じるかもしれません。
今度は同じように左足をやってみます。
左足の親指から、土踏まず、かかと、足首、ふくらはぎ、ひざ、太もも、付け根まで行ったら、丹田呼吸に戻します。
これで両足がしびれて重く感じていると思います。
最初からすぐにそうならないかも知れませんが、その場合次からは大きな深呼吸をしながら、穴の位置と呼吸の流れに意識をしっかり集中してください。
次に右腕の5本の指先に移ります。
そして手のひら、手首、腕の筋肉、ひじ、上腕筋肉、腕の付け根、肩まで行って、左腕に移ります。
左腕が終わったら、頭頂、眉間、鼻、口、首、心臓、上腹と移動して丹田に戻ります。
最後に頭頂から息を吸って足裏で息を吐き出す深呼吸を10回くらいやって終わります。
すべてが終わるまで1時間ほどかかると思いますが、これで全身がずっしりと重く感じ、安らかな気持ちになっていると思います。
それは天国にいるような気分かもしれません。
その気分を精一杯味わってください。
一度その気持ちを体験すると、それは身体に記憶されて、いつでもその気持ちに戻ろうとするようになります。
毎日寝る前にやれば不眠の解消にもなると思います。
経行(きんひん)
次は部屋でゆっくりと歩く瞑想で、これは禅では経行(きんひん)と呼ばれています。
親指を中にして左手を握り、それを胸に当ててその上に右手を重ねます。
ひじを上げて姿勢を正し、肩の力は抜いて、目は下向き。
吐く深呼吸をしながら、吐く息ごとに半歩(足のひらの半分)づつ前に進みます。
その時上体はぐらぐら動かないようにします。
歩きながら呼吸に意識を向けますが、同時に姿勢や足の裏の感覚にも意識を向けます。
思考や行動は同時に複数のことができませんが、感覚は同時に2つ以上のことに傾注できますから、できないと思い込まないで、2つ3つと重ねていってください。
それは感覚を高めるためにとても有効で、吐く深呼吸や姿勢が習慣になれば、足の感覚にだけ集中するようになります。
人と話をするのは禁物で、自分とだけ向き合います。
座る坐禅も感覚を高めますが、時間を使いますので、時間があれば指導を受けてください。
坐禅は調身、調息、調心といって、最初に姿勢や手印を整え、次に呼吸を整え、心は今の自分自身に留まり続けます。
それらを同時に重ねることによって、感じる力を高めてゆきます。
坐禅以外にもウィパッサナー瞑想などがあります。
参考書:マインドフルネスストレス低減法 ジョン・カバットジン著
私たちの身体にはいつも完全な状態に戻ろうとする力が働いていて、それが治癒力です。
治癒力は心身がリラックスしているときフル回転になって、その時回復に向かう力が一番大きくなっています。
リラックスには心の完全性(仏性、真我)が働いているので、瞑想もこれを追求します。
リラックスするのに一番手軽な方法はリラクゼーション音楽です。
音楽は文字通り音を楽しむものですから、もともとリラクゼーション向きなのですが、最近はリラクゼーションに特化した音楽がたくさん出回っていて、自分の好みの音楽が選べます。
快い音楽に引き込まれると、時間を忘れ我も忘れて今瞬間の世界に留まることができます。
音楽だけでなく自然音や、梵鐘、太鼓などの鳴り物もリラクゼーション効果があります。
自然音や鳴り物は再生された音響ではなく、空気の振動を直接受けたほうが効果的です。
自然の中での散策や生活はリラクゼーションそのものです。
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もう一つ簡単なリラクゼーションにインセンス(お香)やアロマなどの香りがあります。香りも音楽も五感(感覚)を刺激するものですが、なぜ感じることがリラックゼーションになるのかといえば、私たちは感じているとき思考が止まり、思考のない状態をやすらぎとして感じるからです。
それでは視覚はどうかといえば、キャンドルの炎にもリラクゼーション効果があります。
炎はあくまで暗さとのコントラストがやすらぎになるので、周囲は暗くしておく必要があります。
街の夜景を美しく感じるのは、暗さの中に灯りがあるからです。
最近間接照明もリラクゼーションをうたうようになって、暗さをベースに部分照明をすれば明暗のコントラストがやすらぎを生みます。
最近LEDが普及して、コントラストだけでなく色彩が与える印象を楽しむこともできます。
そのリラクゼーションにとても効果のある方法がヨーガ(ヨガ)です。ヨーガは身体(五感の体感)を感じることによって、思考のない一瞬一瞬に留まり続けることができます。
写真の「シンプルヨーガ」というDVDは私が偶然購入したものですが、家庭でヨーガが学べて、初心者向けによく考慮されています。
他にもヨーガのDVDはたくさんありますし、地域の体育館でもヨーガ教室を頻繁にやっていますので、どうぞお試しください。
ヨーガは決して無理をせず、自分が心地よい状態でやることが大切で、その心地よさがリラクゼーションにつながります。
これで一度本物のリラックスを体験すると、心がそれを覚えていて、その状態を自然に求め続けるようになります。
ヨーガだけでうつ病が治る場合もあります。
身体のマッサージやお風呂のジェットやバブルも身体効果があります。
旅先で景観に変化を感じることも温泉に入ることもリラクゼーションになりますので、様々なリラクゼーションを組み合わせて、治癒力を活性化してください。
前にご紹介した吐く深呼吸もリラクゼーションの条件を備えています。
五感(感覚)を活性化することが、すなわちリラクゼーションです。
続けることが大切であることはもちろんで、これは生活の改革なのです。
ここまでいろんな苦しみのパターンを見てきたのは、精神障害の本当の原因を知っていただくためです。
「脳や神経伝達物質の異変が精神障害の原因である」とする現代医学の結論は、まだ研究途上にあって、脳の異変は原因ではなくすでに結果の一つなのです。
残念ながら本当の原因を知ることができても、それを自分で止めることはできません。
原因はすべて無意識の中にあって、止めようとすればその葛藤がまた苦しみになるだけだからです。
私たちのエゴにできることは原因を承知していることで、承知さえしていれば、苦しみに飲み込まれることは少なくなってゆきます。
原因を完全になくしてゆくには、自分で何かをしようとするのではなくて、自然の治癒力にそれをゆだねなければなりませんが、その方法をこれから述べてゆきます。
うつ病で苦しむ人が多いので、ここではうつ病を想定しますが、精神障害は同じ原因で起きているので、基本的にすべてやり方は同じです。
うつ病は様々な苦しみ(ストレス)によって生命力(生きる力、地球と結びつく力)が損なわれています。
そのため自律神経系や分泌系の機能が低下して、生きることに疑問を感じ、食欲や性欲も低下しています。
生命力は生命を維持するために睡眠を引き起こすので、生命力が低下するうつ病では睡眠に障害が出てきます。
また生命力は安心感となって感覚系の不安感と拮抗しているため、生命力が低下するうつ病では相対的に不安感が高まります。
ですからうつ病では原因に対応する前に生命力を高めることが優先されます。
「生命力」は現代科学では未知の概念ですが、うつ病を理解するには不可欠です。
吐く深呼吸
生命力を高める呼吸法です。
立っていても、椅子に座っても、正座でも安座でも結構です。
安座は座布団などで尻を高くして、両ひざを床に付けるような形で楽に座ります。
胃と下腹に手を当て、背筋を伸ばしてあごを引きます。
おなかを少し前に突き出すと呼吸が楽になります。
目はつぶって、背筋以外の顔、肩、腕、足、全身の力を緩めてリラックスします。
顔は優しい顔になります。
ゆっくりと鼻で深呼吸しながら、その呼吸を全身で感じます。
鼻で息ができなければ口でも結構です。
両手でお腹の動きを感じ、鼻、喉、肺で空気の流れ、温度を感じます。
それを5分ほど続けてください。
大切なことは呼吸を全身で感じ続けること。
次に深呼吸を続けながら、息を吐くとき心の中で「あ~」という声を出しながら、ゆっくりお腹で息を吐き切ります。
吐き切ったらお腹で息を吸って、お腹が膨らんだところでまた「あ~」と吐き始めます。
胸まで膨らませません。
実際に声は出しませんが、自分の美声に聞き惚れながら細く長く声を出し切ってください。
それを続けていただけば、長く吐いて短く吸う腹式呼吸になっていると思います。
不自然な呼吸なので最初は大変ですが、慣れてくると次第に呼吸の周期が長くなってゆきます。
ここまでは練習ですから、これも5分ほどにして次の呼吸に移ります。
呼吸に慣れてきたら、その呼吸のまま両手は膝の上に上向において、もう一度肩の力を抜いて、優しい顔をキープします。
そして「あ~」と声を出す代わりに、体中の病気やストレスや不要なものが、吐く息と共に吐き出されることをイメージします。
そして息を吸うときは、新鮮な生命エネルギーが身体に満たされることをイメージし、この呼吸を最後まで続けます。
イメージというのは考えることではなく感じることです。
色を感じ、音を感じ、匂いを感じ、触感や温度を感じます。
この呼吸法はうつ病以外にも万能の健康法ですが、続けなければ意味がありません。
最初は1日10分でも20分でもよいから毎日続けること。
慣れてくれば朝起きてから夜寝るまで、仕事中も続けることができます。
仕事中はイメージや呼吸に注意を向けるのではなく、呼吸をしながら仕事に注意を集中してください。
前にも申し上げましたが、自然治癒は薬を飲むのとは違いますから、効果を期待してやらないこと。
ただ淡々と吐く深呼吸を続け、それを自分の人生の一部にすることです。
葛藤には3つのパターンがあって、相手と戦うこと、自分が逃げること、自分の中に抑圧することの3つです。
そしてそれらが苦しむ人の性格を特徴付けています。
戦っても逃げても抑え込んでも苦しみは収まらず、それを繰り返しているうちに精神障害になってゆきます。
攻撃性
葛藤があると攻撃性が強くなりますが、本人は自分の被害者意識にばかり敏感になっていて、攻撃性にはなかなか気が付きません。
自分より弱い相手に対して、あるいはネットの掲示板など一方的な悪口に攻撃性はよく表れますから、まずは自分の攻撃性に気が付く必要があります。
「叱責、批判、中傷、悪意、恨み、憎しみ、怒り、対抗、防御」などが攻撃性のキーワードで、それが心の中に潜んでいれば、言葉や行動がなくても同じことです。
自分の攻撃性が自分の被害者意識(緊張、自分の殻、人嫌い、被害妄想、落ち込み etc.)となって、自分の苦しみを拡大してゆきます。
被害者意識は自分の外側から加えられるのではなく、自分の攻撃性が自分に還っているものです。
逃避
逃げること(逃避)は苦しみを避けようとして相手や環境から逃げ回ることです。
中途退学、転職、離婚、家出、引きこもり、自殺などは多くの場合それに該当します。
自分の原因に気づかずに、相手や環境が苦しみの原因だと思い込んでいるため、逃避を繰り返しながら次第に追い詰められてゆきます。
最後の逃避は自殺ですが、それは「死ねば楽になる」という唯物論信仰があるからです。
死を宣告された人が死を受け容れることができずに、苦しみから逃げ回った挙句自殺することがあります。
自殺は死とはまた別の、逃げ場を失った最後の逃避なのです。
逃げ回る習慣は実際に身体を置き去りにして心が逃げてしまうので、いろんな精神障害の原因になります。
離人症など解離性の障害は心が身体から逃げ出したために起きています。
私たちの思考には苦楽の二元性があって、苦しいことがあるから楽しいこともあります。
ですから楽しいことだけの良いとこ取りはできません。
逃げずにどんな苦しみとも向かい合うことはとても大切なことで、苦しみはもともと自分に必要だから起きています。
必要なことが起きているのにそれを回避するから、苦しみが倍加して追いかけてくるのです。
苦しみから逃げるのではなく、ちゃんと向かい合えば、苦しみは自然に収まってゆきます。
それが「受け容れる」という葛藤のない状態です。
抑圧
抑圧は葛藤を自分の中に押し込みます。
そのため未消化の感情エネルギーが心の中に封じ込まれて、蓄積された感情エネルギーがより大きな葛藤を生んでゆきます。
それはちょうど雪だるまが膨らんでゆくようなものです。
そして社会生活の中で、蓄積された感情エネルギーが放出されて、自分の人生がそれに支配されるようになります。
それはまた心の傷となってPTSDなどの障害の原因になっています。
これは「あるがままに受け容れる」のところでもう少し詳しく述べます。
生命による苦しみは四苦八苦のうちの「生老病死」の4つの苦しみです。
しかし実際には病気や死の苦痛よりも、それを否定することによる心理的な苦しみのほうが大きいのです。
病苦や死を否定すると、それから逃れようとする葛藤が心の中で苦しみになって、その苦しみからも逃れるために死にたいとまで思うようになります。
死ぬことが嫌で死にたいというのはおかしな話ですが、実際には誰でも経験し得ることです。
病苦や死を否定せず、あるがままに受け容れるようになれば、心理的な苦しみからは解放されます。
純粋な身体の苦しみは、どのようなものであろうと耐えられないことはありません。
安全の苦しみは人間が動物であるための苦しみです。
恐怖感や不安感が危険から私たちの身を守り、私たちを安全に保っています。
ところが恐怖を否定してそれを避けようとすると、恐怖がどんどん膨らんで自己増殖してゆきます。
恐怖症、不安神経症、パニック障害、脅迫神経症などはそのようにして起こります。
ですから恐怖や不安を否定せずに積極的に体験してゆけば治ります。
恐怖や不安はうつ病のストレスの原因になりますが、うつ病の不安は別の生理的理由によるものです。
個我による苦しみ
孤独感、虚無感などが個我による苦しみで、私たちを自分の外側に何かを求め、何かになろうとする行動に駆り立てています。
それは私たちが神や他人と分離していることによって生じています。
私たちは一人ぽっちである寂しさから友達を求めますが、友達で孤独が癒されることはありません。
誰も自分の心には入り込めないからです。
エゴの支配によって孤独感は強まり、エゴから解放されることによって孤独感はなくなってゆきます。
虚無感は前述の依存性の原因になっているものです。
私たちがいつも何かになろうとして、本当の自分になれないことも虚無感からくるものです。
自分の内側に全てのものがあり、自分は既に完璧であることに少しづつ気づく必要があります。
それもエゴから開放されることによって実現します。
エゴから解放されるには、いつも自分のエゴに気づいていることです。
私たちは「あの時ああすればよかった、こうすればよかった」と過去を悔いて、いつまでも自分を責めてしまうことがあります。
例えば過去に中絶をした人がいつまでも後悔していれば、それは過去の判断が今でも変わっていないということです。
これからも同じ状況になれば、また生む側の都合で中絶を繰り返す可能性があります。
それは過去を悔いているのではなく、今の自分を責めています。
私たちは過去から未来に連なる時間の中で生きていて、過ぎ去った過去は取り返しがつかないものと思っています。
ところが時間というのは外側から取り込まれる思考によって作られる概念で、私たちの心には今という瞬間しかありません。
私たちが無我夢中で何かをやっているとき、あっという間に時間が過ぎてしまった経験があると思います。
それは無我夢中で何も考えていなかったからです。
時間は地球や宇宙や私たちの身体には働いていますが、私たちの心には時間がありません。
ですから中絶の例では、過去の過ちに気づいて同じことを繰り返さない心に変われば、過去の悔いもなくなります。
「あの時もっと頑張ればよかった」と思うとき、それは今も頑張っていないということです。
今全力を尽くす自分に変わることができれば、過去を悔いることはなくなります。
私たちは心の傷(PTSD etc.)を過去の問題だと思って苦しんでいます。
それも過去ではなく今の心の問題です。
過去の記憶(イメージ)さえ取り戻せば、いつでもどこでも過去の感情と思考を体験することができます。
退行催眠は記憶を取り戻すためのただの心理テクニックで、心にタイムマシンは要りません。
今自分の中に蓄積されている感情を浄化することによって、過去の生々しい記憶は化石のような感慨のない記憶に変わってゆきます。
よく過去生が云々されますが、過去生も今の心に集約されています。
今の心にないものは、過去生で何をやっていようが既に精算済みで、過去の行為が問われることはありません。
将来に感じる不安も過去の悔いと同じで、今に全力を尽くしていれば、将来にも全力を尽くしている自分がいます。
そこに将来の不安はありません。
今くよくよしながら生きていれば、将来も間違いなくくよくよ生きている自分がいます。
ですから本当は将来が不安なのではなく、今の自分が不安なだけで、時間は錯覚に過ぎないのです。
時間を追う苦しみ
時間による苦しみがもう一つあって、それは結果を追う苦しみです。
例えば何かの仕事をしているとき、それが終わることを期待しながら仕事をするのはとても苦しいことです。
それは仕事が終わらないことと葛藤し続けているからです。
子供が遊ぶとき、子供は遊びが終わることを期待していません。
ただ遊ぶ今を楽しんでいます。
仕事もそのようにすべきなのです。
うつ病治療において、それが大きな問題になります。
うつ病が治ることを期待していると、かえってストレスが加わって悪化してしまうのです。
結果はあくまで与えられるものであって、結果を時間軸上で追求してはなりません。
詳しくは機会を改めますが、その理由は原因と結果の結びつきが時間上では全く脈絡のないものだからです。
自然治癒では治すことを目的にせず、ただ淡々とやるべきことを続ける必要があります。
「いつのまに気がついたら治っていた」というのが自然治癒の結果です。
冒頭に意思(熱意)が必要だとありましたが、熱意は必要で結果を追わないというのは矛盾しているように感じると思います。
熱意は今瞬間の真剣さであって、心の完全性(治癒力)からくるものです。
結果を追うのは「今か今か」と時間を追うことで、外側から取り込まれる思考によるものです。
思考は葛藤にエネルギーを消耗して、今瞬間の真剣さはありません。
両者の違いは微妙ですが、熱意は必要であり、結果を追うことは苦しみになります。
うつ病でよく言われる「頑張ってはならない」ということも、「結果を追わない」と同じ意味です。
結果を追う、時間を追うという思考習慣は性格に表れてきます。
「短気」「せっかち」「あせり」というのは結果を追う人の性格で、あきらめやすいという特徴もあります。
この性格はうつ病と相関があるとされます。
否定の苦しみは心理的な苦しみの中では最大級のもので、自分の否定したものが存在し続ける苦しみです。
釈迦の言う「怨憎会苦(嫌な人に出会う苦しみ)」もそうですが、嫌なもの、嫌な人、嫌なことすべてが自分の苦しみになっています。
それは嫌なものが問題なのではなくて、自分が嫌なものとして否定することによって自分の中に葛藤(争い)が生じ、それが苦しみになっているのです。
なぜ否定するかといえば、それは思考に善悪の分別があるからで、ものごとを善い悪いに仕分けする二元性によって起こります。
私たちは「自分は正しい、相手は間違っている」という裁判を心の中で繰り返しています。
その結果自分は正しいから何も変わる必要がないと考えます。
どちらもそう思うから、争いや苦しみが収まらないのです。
仏教では善悪を問わず、因果を問います。
真に因果を問えば、どちらにも同じ原因があって、それが衝突していることに気がつきます。
自分がその原因をなくしてしまうだけで、争いも苦しみもなくなります。
否定は心の狭量さ(器の小ささ)ともいえるもので、自分の周りを否定しながら、自分が苦しんでいます。
何事も許せない人、人や社会の悪口を言う人はこの思考パターンが強く、その苦しみは自分の外側にも広がって、周りの人とも争うようになります。
ですから外側で起こる争いは、すべて自分の内側の苦しみが表れたものです。
社会における司法や立法はほとんどがこの争いの調整機能ですから、どれほど大きな苦しみであるかわかるでしょう。
否定のない心の状態は「受け容れること」、あるいは「器の大きさ」「許し」「愛」として感じます。
否定は他人に対して行われるだけでなく、自分自身も否定して自己責め苦になります。
善悪のものさしは、自分も他人も区別しないからです。
たとえば正義感で人や社会の悪を糾弾すればするほど、自分の中の悪も糾弾されて、その結果自分を責めるようになります。
自己責め苦はとても辛いので、自分を正当化するため自己欺瞞するようになります。
それが自分が変わることを妨げる大きな要因になっています。
比較の苦しみ
私たちは小さいころから社会生活の中で、人と自分を比較しながら育てられます。
学校では成績順に評価され、スポーツも優劣を競って比較の中で自分の力を伸ばそうとします。
そのように自分が成長する動機は自分の内発的なものより、優越(プライド)を感じたいという比較が優先されました。
しかし優越の喜びには劣等(コンプレックス)の苦しみがつきまといます。
それは優越の人と劣等の人が別々に存在するのではなくて、優越を感じる人が自分の劣等の部分に苦しむのです。
優越感と劣等感は表裏一体の感情であり、優越感のある人が劣等感に苦しみ、優越感のない人が劣等感にも苦しみません。
つまり優劣の二元性が苦しみなのであって、優劣どちらにも偏らない心が苦しみのない心なのです。
優劣の二元性(プライドとコンプレックス)は差別感を生みます。
たとえば身体障害者の苦しみは、障害者であることが苦しいのではなくて、障害者と健常者を比較した差別感で苦しんでいます。
それは誰かに差別されて苦しいのではなく、自分の差別感で自分が苦しいのです。
ですから自分が人に対して持つ差別感をなくしてゆけば、自分が障害者である苦しみもなくなります。
自分が幸せでない理由を障害や人のせいにしないことです。
幸せであることと障害は無関係であり、障害は顔や姿の違いと同じように、その人の特徴に過ぎません。
他にも女性の容貌や容姿、会社での上下関係など、私たちはあらゆるものを一面的に比較して苦しんでいます。
劣等感(コンプレックス)や羨望や嫉妬(ジェラシー)は比較による苦しみの現れ方です。
それらの苦しみをなくしたければ、人と自分、人と人を比較することをやめ、個性の違いに注目して、個性を認めてゆけばよいのです。
個性は人の顔が違うように100人いれば100通りあります。
ナンバーワンではなく、オンリーワンを志して努力さえすれば、誰でも自分の個性に光り輝くことができます。
感情と思考が作り出す苦しみはいろいろありますが、それぞれの苦しみがすべての人に共通していることは興味深いことです。
すべての人の思考は全く同じもので、それが人間心理や苦しみが同じ理由です。
釈迦は苦しみが8種類あるとして、「四苦八苦」に分類しましたが、現代の日本人の苦しみは釈迦当時とはだいぶ違っているように思います。
おそらく医療が発達し生活が豊かになって、苦しみの重みが変わってきたからではないかと思います。
私はいろんな悩み苦しみに接した経験から、苦しみを重点的に次の5つに分類しています。
○依存と支配の苦しみ・・・人間関係の苦しみ
○二元性による苦しみ・・・善悪、優劣などの分別による苦しみ
○時間による苦しみ・・・過去の悔い、未来の憂い、結果を追う苦しみ
○生命の苦しみ、安全の苦しみ
○個我による苦しみ
依存と支配の苦しみ
依存と支配の苦しみは、その根底に何かを求める思い(欲求)があります。
例えばいじめで「無視をする」という手段があります。
なぜ無視されるのが苦しいかといえば、「仲間外れにしないで欲しい、自分を認めて欲しい」と相手に求める思いが満たされないからで、求める思いさえなければいくら無視されても苦しくありません。
自分の心をよく観察していただくと、私たちの心は求める思いだらけなのです。
その求める思いが依存性で、求めるものが得られない葛藤(戦い)が苦しみになります。
求めるものが人に対する何かであれば、「人のせい、人次第」という相手への依存を深めて、「~してくれない」という所謂「くれない族」になります。
そのため不平不満が多く、自分の心はいつも人や社会に振り回されて、それが心の病の原因になります。
求める思いはモノやコトへの依存も深め、浪費や借金、ギャンブル、酒、麻薬など経済的身体的に支障をきたすものが、「依存症」として定義されます。
依存性は得られても得られても、際限なく何かを求め続けて、求めるものに依存します。
なぜ際限がないのかといえば、求めるものより求める思いが先にあるからで、求めるものが得られても求める思いは満たされることがないからです。
依存性の求める思いは、自分よりも弱い相手に対して支配的になり、相手を自分の思い通りにコントロールしようとして、押し付け、言いがかり、言葉の暴力、身体的暴力へとエスカレートしてゆきます。
依存性による暴力は自分の外側に向かって攻撃的であると同時に、自分の内側にも向かって、自分の被害者意識を拡大します。
緊張、自分の殻、人嫌い、被害妄想、落ち込みなどが被害者意識です。
依存性が強くなると、自立性と創造性が失われ、心の自由を失って特定の思考パターンから抜け出せなくなります。
そしてグルグル同じ思考を繰り返しながら苦しみを深めます。
依存性はそのように関係のストレスや苦しみを生み、依存症や心の病を生み、暴力や犯罪を生んでゆきます。
人間関係の苦しみはほとんどが依存性によるもので、夫婦間の争いや、親の押し付けに苦しむ子供、子供の反抗に悩む親の原因がここにあります。
学校においては交友関係の悩み、職場においても人間関係の悩みのほとんどが依存性によるものです。
それは病気だから苦しいのではなく、苦しみがストレスになって、それが病気の原因になっていることはお分かりだと思います。
日常で感じている苦しみがだんだん大きくなって、医療の診断を受けたとき初めて心の病として病名が付きます。
そのように日常の苦しみと心の病は連続しています。
私たちはその苦しみの原因が自分の外側にあって、外側からストレスを受けていると思っています。
ところが苦しみの原因は自分の中にあって、自分でそれを解消できるというのが仏教セラピーです。
たとえば私たちがいじめを受けたとき、いじめる相手が自分の苦しみの原因だと思って、相手を避けたり反撃したりします。
ところが同じ状況を受けても、それほど気にならない人と、深く傷ついて苦しむ人がいることに気が付くはずです。
もっと苦しむ人は悪意のない言葉や行為にさえ傷ついたり、何も起きていないのに被害を受けているかのように妄想するようになります。
そのように同じ状況でありながら人によって苦しみが違うのは、その人の感じ方、受け取り方に苦しみの原因があるからです。
いじめる相手は悪くないの?と思うでしょうが、それは相手を善悪分別で否定していますから、そう思うこと自体すでに苦しみなのです。
「相手は自分の鏡」、「相手はどこにもいない」という考え方が仏教にあって、ここでは詳しく触れませんが、相手を問うことはそのまま自分の苦しみを深めるだけで、苦しみがなくなることにはつながりません。
苦しみの原因を知るために、自分の中でどのように苦しみを感ずるのか、心の仕組みを解いてゆきます。
私たちは身の回りに何かが起こると、その状況を五感(眼・耳・鼻・舌・身体)が感じ、それに連鎖して思考が状況の意味づけ(言語化)をしています。
思考は今日の脳科学では脳の作用とされますが、本当は五感から取り込まれる光や音と同じように外部から取り込まれていて、私たちはエゴによって自分が考えていると思い込んでいます。
私たちの心には過去の思考によって引き起こされた感情エネルギーが蓄積されていて、同じ思考が取り込まれると、条件付けされた感情エネルギーが再び表面に浮かび上がります。
浮かび上がった感情によって、さらに相手を否定したり攻撃する思考が取り込まれてゆきます。
その思考と感情の連鎖によって心の中で戦い(葛藤)が繰り返されて、それを私たちは「苦しい」と感じるのです。
その苦しみの積み重ねがストレスとなって、精神障害や身体の病気へと移行してゆきます。
思考と感情の連鎖は心の中で自動的に行われていて、私たちはそれを「無意識」とか「心理」とか呼んでいますが、苦しむ人とそうでない人はこの心理プロセスが違うのです。
ですからそれが変わらない限り、時を変え相手を変えて何度でも同じ苦しみが繰り返されます。
もし苦しみをやめたいのであれば、自分の中に許しを生ずるだけで永久に苦しみもストレスもなくなりますが、私たちは心理プロセスを自分だと思い込んでいるため、それに支配されてしまって苦しみから抜けられないのです。
仏教セラピーでは一言で表現されるこの「許し」がカギになっていて、それは「あるがままに受け容れること」であり、またエゴの放棄でもあります。
仏教やインドのヨーガは3000年以上前からこの心理プロセスを科学的に捉えていて、無意識(無明)に支配されない方法を覚醒やさとりの行法として実践してきました。
さとりの行法は同時に脳力開発法でもあり、セラピーでもあり、それらは局面の目的が違うだけで全く同じものです。
ですからセラピーとしての仏教はとってつけた療法なのではなくて、自分が永久に変わるための自己改革なのです。
仏教といえば日本では寺院や仏像や葬式などを連想しますが、それらは仏教の伝承経路において長い間に付加されたもので、それを例えれば天ぷらの衣のようなものです。
本当の仏教はさとりのための教えであり、また苦しみから抜け出るためのセラピーです。
ヨーガ心理学は仏教唯識学として今日の日本にも伝わっていて、唯識学の「阿頼耶識(あらやしき)」に相当するものが前述の蓄積された感情エネルギーです。
感情エネルギーは主に幼少期に親子関係において形成され、学校や社会で膨らんでゆきます。
たとえば親から虐待などを受けて育つと、悲しみや怒りの感情が蓄積されて、その感情が反撃したり逃げたりする思考を習慣的に取り込んでゆきます。
その習慣がその後似たような状況でいつも繰り返され強化されてゆきます。
私たちはこのように蓄積された感情と自動的に生ずる思考の連鎖に左右されていて、それによって人生を支配されています。
仏教セラピーは3つの心の要素に対応して、蓄積された感情を浄化し、自動的に起こる思考を管理して、さらに自分の本質である完全性(治癒力)を高めてゆきます。
「完全性」とは「仏性」や「真我」と呼ばれる私たちの心の核にあるもので、現代心理学ではA.マズローが「完全なる人間」や「自己実現」として追求してきたものです。
心理学や科学はいつも研究途上にあって、私たちが謙虚でさえあれば、古来の伝承によってそれらの不足を補うことができます。